| ●嬉野温泉の歴史 |
「東の辺に湯の泉ありて能く、人の病を癒す」(肥前風土記より)嬉野が温泉地として
始めて紹介されたのは、
和銅6年(713)のことといわれる。しかし、嬉野川沿いの温泉湧出地で旧石器時代の
遺跡(肥前国嬉野石器時代遺跡)が
発見されたことにより、遥か悠久の時代よりこの地の人々が温泉を利用していた
ことが推測されている。 江戸時代になると、長崎と小倉を結ぶ長崎街道は、海外交易のための要
路となり、嬉野温泉は宿場町として栄えた。
そのため藩営の浴場は御前湯、侍湯、町人湯と区別されて、温泉は人々の暮らし
の一部となっていった。
近代においては時代とともに急激な発展を遂げ、現在は旅館60軒、寮保養所12軒が
建ち並ぶ九州屈指の名泉として知られる。
泉源は17ヵ所で湯量も豊富。湯は良質で、汲み上げ時の温度は約100℃もある。
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| ●嬉野茶の歴史 |
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温泉とともに広く知られている嬉野茶。そのルーツは永享12年(1440)平戸に渡って
きた唐人が、不動山皿屋谷に移住して陶器を焼
くかたわら、自家用にお茶を栽培したのが始まりとされている。その後、永正元年
(1504)に明の紅令民という人が南京釜を嬉野に
持ちこみ、釜炒り茶の製法を伝授したことがきっかけとなって、嬉野茶550年の歩み
が始まった。 日本茶でも珍しい釜炒り茶は、茶葉が三日月状の形をしており、あっさり
とした独特の香ばしさが特長。
その味は、和食の他油っこい料理にも相性がよく、日本茶党に広く好まれている
嬉野茶特有の風味といえる。
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| ●肥前吉田焼の変遷 |
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吉田焼は、天正5年(1577)磁鉱石の発見によりはじまった。その後、
時代の波とともに一盛一衰を重ねながら長い歴史を歩んできた。
文化・文政年間には大阪方面との取引が行われ、吉田山はおおいに潤い、
品不足になるほど空前の隆盛をむかえた。しかし、天保の初
年頃になると生産過剰となり、栄華を誇った吉田山はしだいに窮地に追い
やられていった。 明治13年には、吉田山に陶器製造会社「精成社」が設立。陶業界
が好景気の中の設立であったが、それも3年後には再び不況の
あおりを受け、販路を朝鮮へと求めることになる。その積極的なアプローチ
はみごと成功、朝鮮市場を拡大していった。
明治44年になると有田より技術者をむかえ、錦絵に成功。ますますその名声
を高めていった。 しかし、朝鮮市場を独占していた吉田山も、大正10年頃から他製品
の参入に悩まされ始める。そのため陶工たちは素材や
技術改善に努めたが、戦後の不況もあり朝鮮への販路を断念することになる。
その後は再び国内での市場拡大に励み、現在に至っている。
現在、「肥前吉田焼」は、15の窯元によって育まれ、陶工たちはそれぞれに
個性あふれる作品を作りつづけている。
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